やさしさ考

空に浮かぶハート型の雲日々の雑感など

まず初めに。

今回の記事は極めて個人的なものです。

記事というよりはお手紙のようなものです。

それでももしかしてうっかりと迷いこまれた方のために簡単な経緯を最初に書いておきますね。

ことのはじまり

それはTwitter上で仲良くさせていただいているじゅんペーさんの書いた記事を読んだことから始まりました。

小さな絶望がぼくをやさしくさせる|じゅんペー|note
やさしくなりたいと思えば思うほど、自分のやさしくない部分を見つめなければならない場面がたくさんやってくる気がする。 友達の相談に乗っているときに、相手に対してぼくは答えみたいなものを提示してしまうことがよくある。「個人的にはそれはこうした方がいいと思うよ」って口をついて出てしまう。相手が答えを求めてないことだ...

皆さんにもぜひ読んでいただきたいのですけれどこの中にはじゅんぺーさんの考える「やさしさ」と「やさしくなれない葛藤」がつづられています。

そして記事を読んだ後のやりとりがこちら↓

・・・というわけでこれを書いています。

やさしさってなんだろう?

しかし書き始めてはみたもののやさしさってなんだろう・・・。

やさしさなんて空に浮かぶ雲のような曖昧模糊としたものでしょう?

ひとによってなにをやさしさと感じるかは違うでしょう?

ちなみに手元にある辞書でやさしさ(やさしい)を調べてみた結果がこちら。

やさしい①顔つき・態度などから受ける印象が穏やかで好ましい感じだ②相手に対する思いやりや心づかいが十分にある様子だ③そのものに悪い影響を与えないよう配慮がなされている様子だ   出典元:新明解国語辞典

・・・ワカルケドワカラナイ。

誤解を恐れずにいうならこれすべて「やさしそう」に言い換えることもできるのですよねぇ。

生来、天の邪鬼な性格だからそう感じるだけでしょうか。

やさしそうにみえたけど実はやさしくなかった、なんて人ちらほら知っているけどなぁ。

やさしそう=やさしいふりをする人。

やさしいふりとはつまりウソのやさしさですね。

ウソがあるからには本当もあるわけでやさしさにはウソと本当の2種類がある様子。

まずはこの辺りから探ってみましょう。

やさしさのウソとか本当のやさしさとか

まずは世間でよくいわれるやさしさのウソとほんとうのやさしさについてざっと調べてみました。

ウソのやさしさ

まずはウソのやさしさとされるもの。

①やさしさの見返りを求める
②好かれたくてやさしくする
③嫌われることを恐れてやさしくする
④人によってやさしさが変わる
⑤口先だけのやさしさ

・・・キビシイ。

いやだってこういうやさしさ、結構ふつうにしていませんか?

特につきあいの浅い人に対してや職場では社交辞令的な感じで。

もちろんこの見せかけだけのやさしさが常習化してしまってはいけません。

いけませんけれどもやさしさ仮面をつけて立ち回らなければならない場面も多々ありますよね。

そして「ウソでもいいからやさしくされたい」時も人にはあります。

しかしながらウソのやさしさのなにがダメかといえば行動の中心が常に自分にあるところなんですよね。

つまり相手ではなく自分のためのやさしさ。

やさしくすることで相手に代償を求めているところ、ともいえます。

本当のやさしさ

では本当のやさしさはどうかというとそれがこちら。

①やさしさの見返りを求めない
②あえて相手を見守る、待てる
③嫌われてもいいから助言する
④人によって態度を変えない
⑤黙って相手のために動ける

・・・ムズカシイ。

でもこの本物のやさしさ、なにかに似ているなぁと思いませんか?

これ「親」に求められるものとほとんど同じです。

できていたかどうかはさておき子育てはまさにこれでした。

そして子育てに限らず愛する人への思いも一緒です。

よく愛とは与えるものといますが「無償の愛」そのものですよね、この考え方。

先ほどのウソのやさしさと違い本当のやさしさの主役は徹底的に相手。

相手のためのやさしさ、です。

損得や打算を考える間もなく無条件に心や体が動くことが本当のやさしさ、といえるのでしょう。

やさしさといとおしさ

本当のやさしさは限りなく愛に近いのですがそうなるとひとつの疑問が浮かびます。

それは愛する対象のひと(や物事)以外にはやさしくしないのか?ということ。

しかし逆にやさしさの対象をしぼる行為はすなわち自分勝手な選別ですからそれをしちゃった時点で人によって態度が違う=ウソのやさしさになります。

私がいった「やさしさはいとおしさに近い」という意味はですからこういうことです!(雑)

やさしくしたいから(勝手に)やさしくしているだけ。

もしかしたらやさしくされた相手はお節介だなとか迷惑だなと感じているかもしれないけれど。

それでもやさしくない自分よりはやさしい自分でいたいしそんな自分のほうが好きです。

自分で自分を嫌いになったり絶望したりしないためにも・・・ね。

自分に絶望したことがあるか?

しかしそもそも私、自分に絶望したことがない。

もちろんこれだけ生きてきているのだから壁にもあたり穴にも落ち泣いた夜も多少はありました。

でもいま振り返ってみるとその時の感情は絶望よりも失望「ガッカリだよ、自分」に近かったような気がします。

そして「でもまぁ仕方ない」とか「なんとかなる」とか「こんなこともあるよね」で来てしまいました。

つらつらと考えるにいつでも自分で自分を面白がっていることが影響しているかとも思います。

「山あり谷あり続きだけどトホホなことも起きたほうが面白いじゃない」ってもう一人の自分が見ているような感覚。

「いまはこんなにつらいけれどさぁどうする?これから」とナレーションを入れているような感覚。

健やかなる時も病める時もこの感覚と生きてきました。

あぁ・・・そしてこの感覚の行きつく先は「どんな時も自分が好き」なのだなとあらためて認識しています、いま。

自分で自分が好きじゃないとましてや他人にやさしくする心の余裕も生まれないと思うのだけれどどうでしょう?

おしまいに

ふとしたことがきっかけでやさしさについてつらつらと書いてみました。

もちろんこれは今の時点で考える私なりのやさしさです。

きっかけを作ってくれたじゅんペーさんはこれを読んでどう感じるかな?

ただ最後にひとこと。

真剣にやさしさについて考え思い煩いやさしくありたいと願うじゅんぺーさんはすでにやさしい人です。

本日のお言葉

ほかの人にやさしくできる人は感謝されなくたってそうすることができるんだ
byベンジャミン・フランクリン